父と教会について

俺は比較的父親には複雑な思いを持っている。

ある意味で反面教師的なところがあるからだ。

昔から抱えていた疑問:この人はどうしてこうも敵を作りやすく、そして弾劾されやすいのか?

という疑問が最近解けてきた。根本的にうちの父親は頭がきれない。もっというと頭の回転が遅いし、乱雑で根拠の無い断言を頻繁に行う。


べつにそれはいたって平均的な世の父親なのかもしれない。だが、職業的な牧師、となるとやはり問題も多い。


まず

(1)自分の主義主張と聖書がごっちゃになっている

無意識かもしれないが、説教壇で神の言葉(宗教的に言えば)を話すことと、自分の言いたいことを話すことの区別が出来ていない。原理はいたってわかりやすい。だれか信徒ともめるか、批判されれば説教内で必ずそのことへの感情的な反論を出してくる。説教中の信徒の態度に、説教が簡単に影響される。


(2)中世哲学を「人間的」と批判するが、批判対象についてにわかな知識しか無い

これも非常に悲しい。今の本人が知的体力において劣化したのか、それともはじめから哲学など毛頭理解していなかったのかわからないが哲学の理解が「雑」すぎる。

結局「神」という崇高な存在に対して(神学、形而上学)、「人間的で、人間に頼った頑固な何か」という性質に矮小化して貶めている。が、そもそもカントやヘーゲルのあたりは明らかにキリスト教の護教的な性格が強いし、そもそも定言命法をカントが提示せざるをえなかったのは背景にカルト的でスコラ哲学を被った、当時の学問を蹂躙する後新的呪術的教会(=政治)に対し最低限のモラル(つうか人権?)を守る「理性」の存在を訴えていたからであって(しかも当時は戦争だってあった)、そもそもそれらの哲学が存在した理由やバックグラウンドを何も理解せず、非常に幼稚な論理でこきおろしているに過ぎない。そして、新約聖書の中で、自分の経験(まあ弾圧、と本人が認識しているところだわな、)に合致し、自分の存在事由を正当化する、そんなストーリーの羅列を、いつまでもループする。何年も。何十年も。 発展性が無い。 そして素養が無い。
あとちょっと不安ですらあるのだが、世界で起こっていることのソースをTVから切出すなんてことを、仮にも大卒の大人がやってるなんてあまりにもレベルが低い。TVなんてのは所詮は民衆の相手をする玩具かプロパガンダであって知的労働をする人間が参照referenceとして依存してよいものではない。また、私訳というのもマスターベーションに過ぎない。あとエリーティズムに対しての憎悪がひどすぎ。「神」と「自分」の区別が出来ていない。本人が誰かを批判し自己の存在理由を正当化したいと潜在的に欲求しているときに、それが「神」とか「ガンコ」とかいうとんちんかんなキーワードになっている、としか思えない。つきつめりゃ「神」と銘打ったあなたの価値支配欲か何かだろ。
  少なくとも確実に言えることは、あなた程度の知的体力の人が、「知識人」だとか「エリート」だとか「哲学者」を包括的に語るような資格は無い。パリサイ人との同一化も強引かつナンセンスである。それこそ化石だ。
  あと自分の言葉を「神の言葉」とするのもやめたほうがいい。それは自分の言葉の愚かさの責任を「神」に押し付ける行為ですらある。「借り物の」言葉を使っていると指摘している相手よりも遥かに、自分自身の言葉を持っていない。いや、自分の愚かな無知の言葉の羅列に、神の権威を被せているだけにすぎない。


(3)カリスマ性が無い

牧師というのは人をリードしたり救済したりする存在であるが、当の本人にものごとを「断定」できるだけの判断材料が無い。だからいつも幼稚なドグマや「イエス」まわりの限られたストーリーをぐるぐる周回している印象しか受けない。パリサイ人、というフォルダに、自分を非難した人間を入れて、定期的に叩くことで自分を守っているというか。

あと自分に自信が実のところは無い。そしてそういう弱い部分を見せても、信者は許してくれると勘違いしている。でもそれは間違っている。
そういうことをすれば相手は不信感を抱くだけ。

本人の主張する直感と言うものが単に根拠の欠いた妄想であることが往々にしてあり、また、本人が批判したいものに対しての立論、根拠が非常に稚拙で見てて情けない。困ったら「神」を出してくる習性が身に付いてしまって客観的にものを見て判断できない。

本人はたまに私を「借り物の言葉」だとかなんとか言うが、

理性を欠いた稚拙で視野の狭いドグマを振りかざしてボケていくよりは、もっと明晰でありたいと思ってる。



これくらいブローきかせないと、俺のとっている態度の理由は理解してもらえない。




正直あんな茶番じみた説教を最前列できくのは拷問以外の何者でもない

当の本人が自分たちの進めているものの良さを本質的には伝えられないのである






つまり宗教の怖いところは、

「無条件に自分を肯定してくれる」

という妙な黙契が成り立ってしまい、その前提によりかかり、退化していくとか、思考停止していくということが往々にしてある。 そしてフォイエルバッハの「キリスト教の本質」に書いてあることはかなり的を得ている。


フォイエルバッハはいわゆる三位一体とかアタナシウス公会議のセオリーをきわめてスマートに解析し、本質を提示した哲学者(ただし刑法の父と言われている)である。


知識云々という偏見を捨て去ってもっと自身の無知と、宗教に毒されすぎて「現実」と乖離した幼稚園児になってしまった喜劇を見つめ直してほしい。


宗教ってそういうもんだ



尊敬する価値は、どれだけ年を重ねたかではない。

つまり無条件などではない。神の権威に逃げ、人間の自由意志を否定する愚かさ。

そんなことについては、もはや言うまでもないだろう?



あと自分の結果に対して言い訳を重ねたり、他者の理解や同情を求める方に走る卑屈さもダサイ。

それは男ではない。


重ねた年の分のキャリアがなかったら、終わってるよ


いつまでも人にやさしさを求めてないで、もっと現実と向き合って欲しい


エリーティズムを敵視し、障害者同士でたのしく傷をなめあってお遊戯してるとか、他人の同情を当てにして生きるとか、

幼稚なディスコースを乱用した結果頭の中まで幼児になった牧会とか、

もううんざりだわ。そして自分を否定した人間から何も学ばないとか。


そういう施設が教会なら、そんなものはゴミだ