思うこと
キリスト教の集団、また宗教の集団というのが一番明確に持っているメリットというのは「居場所」とか「居心地よさ」である。
ここにいて僕が目にしたのは、反エリーティズムという(ニーチェがAntiChristにおいて述べていた)弊害であり、
また宗教的エリーティズムという弊害である。
パリサイ人をループして疎外することにより自分を正当化したり。
僕は一番怖いと思うのは、宗教やる人って往々にして退化していく。
他人の優しさに依存する。他人の善意をあてにする。
自分が見切りをつけられたり、裁かれたりすると「あの人信じられない」ってなる。
でも、生きるっていうのはつねに誰かや何かにメリットを提供する対価だと思う。
一番キリスト教的なのは全員が神の元に平等にクズである、っていう「罪sin」の概念でカルバンや キリスト教お墨付きのキルケゴールだが、
これは競争を否定し、優れた人間の脚を引きずり卸す心理に近い。
宗教は、自分の無知や知的怠慢の責任をすべて神に丸投げすることができる。
何か自分の問題を指摘されたら、指摘された人間を神の前に貶めれば良い。
自分が、何か政治的な評価や判断をするために必要な情報やロジックや最低限の剤料(情報コスト)も簡単にショートカットできる。
だから宗教の連中が政治に首をつっこむとろくなことにならない。
世間知らずの人が多いから。そして、自分の世間への無知を、世間への嘲笑という形で返すから。
宗教は恐ろしい。
小手先のドグマと言うクレヨンでまわりを平気で塗りつぶすのだから。
まあ簡単に言えば
「思い込み」と「正当化された勉強不足」を押し付ける行為、
これが日本でよく見られるキリスト教の姿であり、さらに笑えるのは、これら無知な牧師の愚連隊が自分自身は、「The キリスト教」とは違うんだ というふうに、自分自身をキリスト教から疎外することによって自身の特別性を標識することである。
あと、特にプロテスタントの牧師にはいい加減イタコごっこ自分を通して神がしゃべってるんだみたいなナンセンス発言はやめて自分の言葉にくらい責任もてよって言いたくなる
ずっと見てきたからね