暇なので教会の批判でもしてみる

暇なんで親父のブログでもたまにはのぞいてみようかなと思いのぞいた。その感想をだらだらと書いて今日は寝る。

ソースはこれ:
http://mikofuku.blogspot.jp/2012/04/2012414.html




悪いけど俺はこういうことにはシビアにいくことにしてるんで。

ただ、「世慣れ」をしてしまうと、「イエスさまの気持ち」がわからなくなる、常識で思い込み、決めつけてしまうってことなんです。

これはパラドクシカルというか、逆にその「イエスさまの気持ち」=宗教 のパラダイム(常識)で、現実社会(世)を思い込み、決めつけてしまうってことだと思うんだがw 

自分が宗教サイドにどっぷり浸かってしまったために、自分の信じるものに属さない人間を「世慣れしてしまった人間」と包括的に捉えてそれこそ「決めつけている」だけであって、かなり自己中心なものの捉え方な気がする。 それに別に「キリスト教」が正しいという根拠は実際無いし、自分をキリスト教というカテゴリーから外して特別視するナンセンスもやめてもらいたい。思考がとても浅い。自分が批判しようとしているその「世」とか「世慣れ」というものに対して、ほぼ何もわかっていない、まあつまりいわゆる非常識、非社会的ってことだわな。


なんかこういうの見るたびに、このブログに一貫して言えることなんだけど、この人自分の周りが全然見えてないんだなって思う。話の内容も単調だし、ソースは根拠が薄いし、キリスト教というファンタシーの外にある、「現実」を理解するという能力および姿勢が全くない。それらは大方本人の空想か妄想で「世俗的」とかなんとかレッテルを貼られておしまいである

自分で頑張るクリスチャン、クリスチャンを信じるクリスチャンが山の下にいた。

ここで「自分」に頼るとか自分が強くて神に頼らない人間を批判するコンテクストが出てくるのだが、まあ勘繰りかもしれないが、あえて断っとくと俺は神は信じていないし、自分がクリスチャンだとも思っていない。

ピントが神さまじゃなく、自分にあたっているからです。

もうちょっと正確に言うと、ピントが神さまに当たっている = 神さまという観念的な装置を用いて自分の権威を過度に増幅し、責任の所在は神に充てている、というのが正しい。(もうくどいかもだけどフォイエルバッハがもう全部網羅している)

だからこの人の論調だとかなり頻繁に「親子関係」とか「父親 〜イエス」というロジックが目立つが、用は


「自分が親として敬意をもたれたい、無条件に子供に尊敬して従って欲しい」

という内在的欲求が、


「父なる神に従う、敬え→親子関係」


という形に置換される。だから「神」という自分を最も正当化してくれる隠れ蓑を乱用しているだけで実際は本質的でもなんでもない。自分の支配欲の代弁者に、神がなっているということでしかない。

あまりに反対の道を行きますと、イスカリオテのユダのように、破滅の道となってしまう。大きく「曲がって」しまうんです。

で、自分たちの信じるものに従わないと、ユダみたいになっちゃうぞ、という形で
自分たちのパラダイムにそぐわない人間や自分たちを批判する人間を「非信仰的・非本質的」とみなし、「×」のレッテルを貼り、ゴミ箱フォルダに入れる。



だから非常に狭く、幼稚な世界である。


俺の親父はニーチェを「おまえは神か」とか批判していたけど、ほぼ確実にニーチェの方が親父よりも思考力があるし、知的に綿密だし、精神年齢も高いと思う。


で、ニーチェの考察の一環として

このキリスト教の「幼稚さchildishness」ということがやはり焦点が当てられていて、


「幼子ほど受け入れられる」
「遊女ほど受け入れられる」


つまりはその程度の幼稚な宗教だ、と本人が述べている。
俺もこの意見にかなり賛成である。事実牧師は大方幼稚な人が多い




で、もっとも悲しいのは、俺の親が宗教を介してしか子供に自己表現できないことであり、また、子供に自分の信じているもののメリットを何一つ伝えられていないということだ。(そういう意味で弟は見切りつけるのがはやかった)

説教を聞くたびにこの宗教は終わってるなって思いが確実に増すから。















自分の周りの人間が自分に対してとっている態度というのは、自分に原因があることが大半だが、この自分の持っている根本的欠陥をきちんと理解し学習しないと、永遠に人としては成長は出来ない。これを単なる意味不明の悪意だとか、神への反抗とか思い始めた時点で、その人間は「現実」との接点をみるみる失っていく。そしてその相手を聖書の中の病人かなにかに例えてみたりするのである。



宗教(特にカルトかキリスト教)にどっぷりはまっちゃった連中っていうのは、自分に都合の悪い人間を上から目線で裁く観念的道具が豊富にある。パリサイ人とか、ユダとか、ペテロのフォルダに一人一人区分けしていく。

ニーチェの言うように、クリスチャンの「インテリ」への異常な憎しみとか敵愾心というのは狂気に近い。

そして、自分らは社会を評価するのに、稚拙で簡単ないくらかの論理と「イエス様」さえあればなんでも評価できる。


こういうバカなのがいるから、政教分離は大事なんですと。

昔からこうなんですね。都合が悪かったらなんでも「世俗」「世の中」。

確実にあんたの知的スペックが足りてないだけです。

これは宗教をやる人間に多いんじゃなかろうか







あとブログの閲覧人数俺のやつのパクってるしwwww


なんなのもうwwww








まあこの記事だけみれば俺って結構嫌なやつかもだが、俺みたいな境遇の人間っていうのは大概

(1)不良になるか、(2)女に走るか(つまり教会の女に手を出しまくる)、(3)俺みたいにキリスト教を批判していくか


まあコリアンあたりだと(4)二世として忠実に信仰を受け継ぐか、


とかかな。

あとはあまりきかないわ







凄く辛いのは、「この人は俺の持っている疑問への答えを何一つ持ってないな」

ってことであり、自分よりも知的に雑で、向上心も無い人から何かを教わることはとても難しい。

「親である」ということを振りかざして自分の権威を主張しても相手も大人である。

自分が学ぶべき師は自分で選ぶわ




もっと普通に接してほしい。押し付ける価値のないものを押し付けないでほしい。

その二点。



フッサールとか戦後思想もきちんとチェックしてない人が「相対」なんてことを、口が滑っても批判してはいけないはずだ。恥をさらすだけだからね。



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