The good night(2007)

あらすじをまとめると、

業績もさえないミュージシャンのオッサンがいて、美女の妻がいて超絶リア充に見えるんだけど夢に現実逃避してる。その夢に別の美女がでてきて、そっちに浮気してる。夢を追っかけているうちにだんだんキチガイになってきて奥さんは喧嘩して家出する。男は夢の女を追っかけていくうちについに合ってしまって友人のお膳立てでいいところまでいくんだけど、がっついた結果嫌われて終わる。オッサンはもう一度奥さんとの関係を直そうと奥さんのための曲を用意して会場に流すけど奥さんはもうオッサンのことを愛していない。オッサン車にひかれる。なぜか復縁。


という世にも奇妙な物語ってか俺のまとめかたが酷すぎる。


結局、肉体は衰えていくんだけども、心はそれについていけない。いつまでも目線が変わっていかないということ。これは恐怖なんだということ。

例えば、若い娘にとても欲情するとする。事実ファッション(異性を性的に誘惑する手段)だって発達しすぎている。そこに昔のようなパターナリズムによる規範は介在しない。

すると、そのように若い娘を追い求める煩悩みたいなものがいくら年を重ねても臨界点に達しない。心が熟していかない。これは怖いことだ。


どのように人を好きになっていくプロセスなのか。

果てしなく拡張していく性欲なのか。それは自然だ。だけどそれはHobbsの定義したConjugal Affection(家族愛)と並列は出来ないはずだ。きっと一つ生まれた裏切りは、安全であるはずの人間関係をズタズタに壊し、子供も壊していく。



僕は恐ろしい。




愛というのはこれほどに難しく、ストイシズムの先にも、快楽主義の先にも答えは無い。


生きるということはこれほどに難解である。



三島由紀夫というのは故吉本氏のいうように傷ついた子供であったかも
しれないけど、でもああいう生き方は立派であったし、多分それは対幻想(男女の問題)という範疇の外にも、たとえば戦争とか、敗戦とか、戦後の復興へのバイタリティとか、いろんな、みんなで共有できる大きな課題があったからじゃないか。

先進国の人間が、このように不幸に年を重ねていくことの背景には、社会的命題の欠如があるのではないか。




人々は豊かになり、食べ物にも困らず、アミューズメントは腐るほど溢れている。セックスも、セックスシンボルも溢れている。



ある意味病気だ


だけどそういう時代にぼくらは生きてる